曖昧な写真とテキストの話

 

 

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 特に仕事のあてもないまま大学院を出て、運よく小さな編集プロダクションに拾ってもらって、仕事を始めてから今日までだいたい半年間とちょっと。孤独や不安に襲われることもなく、毎日何事もなく朝が来る。筋道を立ててものをつくったり文章を書いたりする作業は向いている。職場の雰囲気も穏やかで、社会とうまく折り合いをつけられないなんてこともなく、たぶんそこそこうまくやっていくタイプの人間なので、つまらないですね。

 夏に茨城の海辺の小さな町で展示をした。海と市場と商店街のほかに何もない、静かな場所で、地元の高校生たちに写真を撮らせてもらった。10代の身体とディスコミュニケーションをテーマにポートレートを作った。制作そのものには手応えを感じた反面、展示はあまり納得いくものではなく、「綺麗にまとめたね」というキュレーターからのコメントは、最初からリスクを避けて企画書通りに設計したことへの批判を多分に含んでいたように思う。グランプリは欲しかったが(候補には名前が挙がっていた)、ゲスト審査の場で強烈な批判があって下されたと聞いた。プロとして活動しているアーティストと比べて、自分の芸術に対する考えの浅さと甘さを痛感した。同年代のペインターから「(作家自身の)パーソナルな部分が全然見えてこない」と言われて諍いになったりもした。

 作家のパーソナリティなんかどうでもよくないか、というのが暫くのあいだ考えていたところで。迷いなく美術の道に進んでやがて作家を名乗るようになった人間はそれなりに個人史と制作を重ね合わせて語れるのかもしれないが、批評理論から制作にシフトした私とはそもそものルーツが違う。ベースにあるのは個人史やパーソナリティではない、視点は自分の作品を主観から切り離したところにあるべきだ、というような論を酔っぱらった頭で展開し、でも実際にはそこまで切り離せるわけもなく、自分の言ってることは理想論に過ぎないな、なんて考えてもやもやと葛藤しているうちに2ヶ月も経ってしまった。撮影に没頭していた反動からか、かわるがわる他人に依存したり離れたりしているうちに生活がダメになっていって、今年もう一本出す予定だったコンペに間に合わず。1度目の展示から数えてキャリアとしては3年目になるが、依然として霧の中を蛇行しているような感覚。

 

以下、これからの制作のこと。

「エピソード」と「肖像(=ポートレイト)」の間を埋めるのがテキストである、というのが今のスタンスで、写真とテキストを切り離すことはできない。(この点に関してはソフィ・カルの著作でかなり明快に書かれていたように思う)プリントの質感を細部までコントロールして画面を洗練させる意識が必要だと常々考えていたので、ここで35mmのフィルムカメラから中判カメラにシフトするのは良いタイミングだったと思う。画面の粗さと主題が乖離しはじめていたので、プリントの品質を上げるためには引き伸ばしに耐えうる解像度がどうしても必要になる。

 そもそも被写体の極私的なエピソードに拘って制作を続けているのは、写真を通して日常に還元できる具体的な価値観を提示する必要があるからだ。たとえ個人のナイーブな内面の吐露に終始したとしても、その地点から外部の世界に切り込んでいくことに私が写真を撮る意味があると信じている。

 人間の肖像を写真に定着させるためにはいくつかのハードルがあり、そこを超えていくプロセスこそがポートレートの作品にとってはとても重要な点であったりもする。そもそも人間を撮ることは基本的にはタブーだ。

 まず他者と自分との間に(好意でも嫌悪でも)何かしらの関係性を構築することが必要になる。これまでも対話やインタビューという形でそこを越えていたのだが、このやりとりをより濃密に行うことがこれから最初にやるべきこと。そこには撮影者自身のパーソナリティの部分もやはり大きく関わってくる。(意図的に?)恋愛に身を投げてみたり、それにまつわる過去のエピソードを掘り下げたりしたことからもある程度の収穫はあった。これ以上に没入すると精神衛生が危ない、というラインもわかった。もちろん恋愛だけが切実な問題ではなわけではないが、他者との関わり方はそのままアイデンティティの問題と強く結び付いている。好意にせよ嫌悪にせよ、他者と一線を越えたコミュニケーションをとる必要があり、ポートレイトの撮影にもよく似ている。

 

 

(長々と書きましたが、撮影の協力してくれる方を募集しています。こちらから声をかけさせてもらうこともあると思いますが、何卒よろしくおねがいします。)

 

 

リネンの匂いでむせて

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 自分のことでしか悩めなくて、自分のためにしか話すことができないから、たぶんそこそこ幸せなんだろう。誰のことも思い出さない。着なくなった服をまとめてダンボールに入れて、読まなくなった雑誌をガムテープでぐるぐる巻きにして、生活に小慣れてきたと思う。もっと惨めで恥ずかしい人になるべきだった、誰も買わない自作の詩集を夜のアーケードに並べて、熱狂的に好きな異性のために10000字のラブレターを書いてメールで送りつけるような、そういう人に。内臓が押し潰されるほど惨めな経験をしないまま24歳になって、苦手なことも下手なこともしなくていい代わりに、今まともな大人だ。ドロドロした欲望やルサンチマンも、昔より少しだけうまくかわして暮らしてゆける。写真の勉強を始めたばかりの頃は、作品を見せるという行為がそれに近かったはずなのに、最低限のレベルで恥をかかない差し出し方も覚えてしまった。大学に入って初めてのデートの前日に買ったストーンズのTシャツを笑いながら捨てることができるし、お洒落でクリエイティブな人生に死ぬほど憧れて毎号買っていたPOPEYEを懐かしく読み返すこともできる。ありきたりな挫折と恥しか味わっていないから、言葉は表層を撫でてスラスラと滑り、文章は誰にも届かずインターネットを流れていく。昔好きだった人の写真はいつ見ても最高。印画紙に写っているのはかつてその人がそこにいたことの痕跡だけで、いま・こことは決して交わらないからどこまでも救いがなくて、大切にとっておくこともできるし、捨ててしまうこともできる。もっと惨めになるはずだった、ドラマみたいに情けないセリフを吐けばよかったけど、中野の居酒屋で向かいに座っていたあまり知らない年下の男に「思ってもないことをよくしゃべりますね」と言われて、そうやって受けとられることにも慣れてきて、これからもずっと惨めになりきれないのだろうと思った。思ってもないことを書くこともできる。眠れなかったから少し歩いてコンビニで缶酎ハイを買って、歩道橋の下で飲んで、レンタルショップでDVDを借りた。映画を観てわかったようなことを言わなきゃいけないと思うのはついこの間まで大学でずっと研究に追われていたせいで、頑張ればそれなりに理解できるかもしれないけど、今はわからないことをそのままにしておくのが苦にならない。会社に入ってから校正の仕事が続いていたので、川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』をたまに読み返したりした。もしも女性に生まれていたら、川上未映子に憧れてなりたくて仕方がなかったはずだ。すこし痛々しい文章を書いて、ありきたりなエピソードしか書けない自分に気がつく。たぶん今と同じだ。単純に写真を撮るのが好きだったのに、理由がないと撮れなくなってしまって、写真をやめるときはもっとクソしょうもない理由でやめる。「仕事が忙しくて」のひとことで納得してしまうような理由でやめるのはあまりに真っ当すぎて、それは悔しい。夏までに暗室で手焼きをしようと思う。新しいことを覚え続けて、撮りたいものに出会い続けて、その場限りの延命を繰り返す。今はそれが肌に合うから、身の回りの大抵のことがそういう感じで先延ばしにされていて、決定的にダメになったときにはじめて清算することになる。終電を逃して西武新宿の雑居ビルに流れ込んだ日の朝に、湿ったリネンの匂いでむせて飲み込んだ烏龍茶を床に吐いた。パーテーションで仕切られた部屋のはおそろしいほど空虚で、善悪や倫理からは果てしなく遠い。新宿駅に向かう途中、大学院時代の知人が東京のアパートを出て実家に帰ったらしいという話を別の友人から電話で聞いて、すこし寂しくなった。